光福寺の目の前に、明治〜昭和初期の大実業家で京浜工業地帯の父と称される淺野總一郎生誕の地の石碑があります。
淺野總一郎と光福寺の関わりは、薮田淺野家の創始に遡ります。
元禄の頃、富山藩家臣の淺野氏共という人が光福寺のある薮田の地にやってきて、農民相手の医師を始め、光福寺の次男了海に自分の娘を娶らせて淺野の家系を継承させたのが始まりと伝えられています。
光福寺には
淺野家 光福寺舎弟 別庵シテ医業職道ス。居住の屋敷 光福寺本堂向拝正面ヨリ左ノ方、大門ノ入口百五十歩余、分地シテ渡ス。則チ是レ淺野の先祖ナリ |
という記録が残っています。
その後代々医業が継がれ、嘉永元年(1848)淺野泰順の子として總一郎が誕生します。總一郎は家業の医師よりも商人を志し、度重なる失敗ののち明治4年に上京し成功を収め、一代で財閥を築き上げました。
大正13年11月17日 薮田小学校校庭にて 總一郎胸像除幕式 左端はサク夫人 胸像は戦時供出で現在はありません
淺野家の家督は總一郎の姉夫婦に引き継がれ、医業もそのまま後世に続き、永く光福寺参道横に医院の建物がありました。墓所は現在も光福寺にあります。
總一郎は鶴見の總持寺に墓所をもつ家系の先祖ということになります。