昭和50年に富山県が発刊した「郷土に輝く人びと」に、光福寺第15代住職、藪波淨慧が掲載されています。
淨慧は嘉永5年(1852)射水郡塚原村(現 射水市)の覚円寺に生まれ、成人して光福寺を継ぎました。新たな時代を迎えた明治の世にあって、滝水薫汁とともに学問に励み、自督社を設立しました。その目的は真宗教団の堕落荒廃を刷新改革し、門信徒組織を通じて農業の振興を図るものでした。公立の農業試験場や農業協同組合もない時代に、旧来の弊習にとらわれ改良を考えなかった農家を指導するため農業試験場を設け、桑苗を農家に配布して養蚕を発展させ、養蚕伝習所や製糸伝習所を設けるなど農業振興に尽力しました。富山県農会の設立に関わり後に全国で初めて民間人として会頭を務め、全国農業会本部幹事や全国農事会参事員となり、中央においても農商務次官の前田正名に信頼され片腕として東奔西走しました。
藪波淨慧(1852〜1906)
本堂に掲げてある淨慧の影像 |
また淨慧は僧侶として島地黙雷に非常に感化を受け、富山市に講演に来ていた黙雷を歓待し、薮田海岸での船遊びや立山登山も行いました。光福寺には淨慧と親交のあった前田正名と島地黙雷の扁額が残されています。
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